大沢悠里のゆうゆうワイド 2008.1.31ゲスト 錦織一清さん 9:35頃〜 ピピン - 2008/01/31(Thu) 17:03
*放送地域でないのと、仕事の時間中だったので、部分的にしか聞けなかったのですが、(雑音も入ってなかなか聞き取れない部分もありました)聞こえたところを書きます。
耳で聞いた範囲でこのようなことを言われていた、ということだけお伝えします。(細かいところはまちがっているかもしれません。もし気づかれた方は訂正をお願いします。)
TBSラジオではス−パ−ギャングという錦織さんがDJのラジオ番組をしばらくやっていて、「ス−パ−ギャングからもう10年ですか。」とにっきさんと司会二人の3人で感慨深げに言っていました。
エドの舞踏会については、番組のなかほどで、にっきさんがナレ−タ−のように、やっている期間、どこの劇場か、などを淡々と話していました。(お稽古中の裏話などは、なし)。
毎年夏は青山劇場でプレゾンというミュ−ジカルをやっている、という話で、司会の大沢さん「どうですか、毎年やっていて。」
錦織さん「そうですね、毎年のことなので、年中行事のようになっていて、夏になったら青山劇場で舞台をやるのが当たり前、というようになっています。第一回目から、毎年毎年見続けてくれる人もいて、そういうずっときてくれている人に支えられてやっている。そんなファンの人たちの中には、お子さんがもう高校生ぐらいになっている人もいて、親子できてくれる。高校生ぐらいの娘さんは、僕らと一緒に出ているジャニ−ズジュニアのファンで、お母さんはぼくらをみにきてくれている、というようなこともある。でもそんな親子の人たちも、みんな(むすめさんたちも)マナ−よく見てくれるんですよ。(うれしそうに)僕らは、やはり、お客さんありき、なので、毎年毎年みにきてくれる人がいて、やっています。」
→大沢さん「そうですよね。なんでもそうですけど、続くっていうこと自体ずっとお客さんがいてのことですね。(しみじみ。」
・プレゾンの話の続き
長く続けているとはいっても、年齢とともに、ダンスをしていても、前とちがうなと思うところは出てきた。20代の頃は、自分で自分のことをス−パ−マンではないかと思うほど、エネルギ−が体にみなぎっていたが、30代になって、自然と自分で自分の体を気遣いながら踊るようになった。だからといって、30代になって、みなぎるものがなくなった、というわけではないんですけど。
ぼくは一度腰を壊しまして、それから、踊りにも腰を気遣って動きをするようになった、でもそれがかえって、(腰をいためてから)踊るとき背筋が伸びているようになった、とよい風にみられるようになったこともあり、また、年齢を経て、若い10代20代のころにはできなかった、肩の力の抜けた、踊り方ができるようになったりした面もある。
・事務所に入ったいきさつについて・・・
ぼくは小学校6年生のときに、なにがなんだか自分でもわからないうちに、姉が事務所に写真を送って、リハ−サルに呼ばれて、ジャニ−さんに会って踊りの稽古をするようになった。最初に会ったとき、なにがなんだかわからずにリハ−サル室にいたら、ジャニ−さんが「YOU,YOU・・・YOU、踊っちゃいなよ。」って「ゆうゆうワイド と一緒で ユウユウ、って。」(大沢さんたち笑)言って、レッスンにかようようになった。
リスナ−からのおたよりで「わたしは錦織さんが大河ドラマ「峠の群像」に清水一学役で、出ていたころに、代々木の青少年記念センタ−に、殺陣の稽古にいっていたのですが、そのとき錦織さん、東山さんもきていて、”ちょっと馬のようになって動かないで”と言われてかたまった体勢でいたら、錦織さん東山さんが、跳び箱みたいに自分の上をとびこえていったことがありました。(あの二人に飛び越えてもらった、というのが驚きです)」→司会の女の人たち「オリンピック記念の代々木青少年センタ−って、ありましたね。」→にっきさん「ぼくとヒガシは何曜日だったかな、殺陣の稽古に通っていました。 今度のエドの舞踏会も、うれしいことに、殺陣の場面があるんですよ。」
司会の人たち「少年隊という名前は変えないんですか。」
→錦織さん「一時期変えるという話もありましたけれども、外国にも○○Boys という名前もありますし、今はもう慣れてなんとも思わないです。このままでいきます。」
追伸 ピピン - 2008/02/01(Fri) 10:20
*いったんコ−ナ−が終わってしまったので、エドの舞踏会のことについて、など聞けたらよかったなぁ、と思いながら、とりあえず仕事に戻ったら、そのあと違うコ−ナ−をはさんで再びにっきさんと大沢さん、陣内さんのお話が続いていました。(スイッチを切らなくてよかった・・・。笑)