阪神淡路大震災(2)
<ケチャップ>
震災についてのフリートークを昨日も書いたところなんですが、震災関連の番組を見ていて、いろいろ思い出す事があったので、また書いてみる事にしました。
地震が起きた頃、私はまだ2階の自分の部屋で寝ていました。しかも、母に起こされるまで。母が下から「危ないから降りておいで!!」という声に目が覚めた私がまず考えたのは「まだ暗いのになんで起こすんやろ」とんでもないやつです。でも、すぐに揺れているのに気がつき、とても母の言うように下に降りて行ける状況じゃなかったので、物が落ちてこないように、枕元においてあったコルクボードをピンを刺してあるほうを上にして頭をかばいました。テレビ等では地震は20秒という事でしたが、もっと長く感じました。うちのまわりは地盤が弱かったらしく、近所中で瓦の落ちる音がすごかったです。揺れが収まってから下の部屋に行くと、まだ停電していて、懐中電灯が頼りでしたが、30分もしないうちに電気が点いたように思います。急いでテレビを点けるとニュース速報で「東海地方で地震」と出ていて、淡路でこれなのに東海地方はどうなってしまったんだろうとぞっとしたのを覚えています。(これは後で訂正されたそうです)でも、ニュースを見ても、淡路の震度が発表されなくて、それもある意味、不安でした。(これは地震計が壊れていたそうで、代わりの地震計がつけられるまで、−たぶん17日中には付いたと思いますが−淡路の震度の記録はないそうです。)
17日は両親が仕事に行くというので、壊れた家をそのままにしておくのはまずいと思って、私が仕事を休んで留守番をする事にしました。でも、後悔しました。余震がすごく恐いんです。その日は震度3程度の余震が何回もあり、その度に家がきしむ音がするのです。何回庭に飛び出したか分かりません。火事が恐いので、余震の度にヒーターを消していたら部屋が暖まらないし、こたつやカイロでは寒がりの私には物足りなくて困りました。お昼過ぎにはまわりも少し落ち着いてきたし、がまんが限界を超えそうだったので、車で30分くらいのところに住んでいる妹夫婦の家に行く事にしました。そこにはまだ小さい甥と姪がいたので、妹ともしもの時は一人ずつ連れて逃げようなんて話して、この二人を守らなきゃと思うと、恐さもあまり感じなくなっていました。
夜、両親が帰ってくる頃に私も家に帰りましたが、余震はまだまだ続いてました。
テレビでは、午前中は普通の番組にところどころニュースが入る程度でしたが、夕方にはほとんど震災関係の番組に変わっていたように思います。
次の日、留守番は恐いので仕事に行きたかったのですが、職場が仕事をできる状態になってないので休んで欲しいと連絡が入り、両親が仕事に行くと同時に妹の家に行く事にしました。
19日からは出勤できましたが、いつもとは違う仕事しかできませんでした。
私の住んでいるところはまだ、大した事はないほうでしたが、淡路の北のほうや阪神地方も私にとって関係なくはありませんでした。
私は定期的に神戸の病院に通ってるんですが、4月に行かなければならない事になっていました。幸い、その病院は外来病棟や入院病棟は無事だったのですが、途中の道がどうなっているのか不安でした。まず、フェリーを降りた時、いつもの通路が通れなくなっていました。でも、JRまでの連絡バスは動いていて、病院までに乗るJRも市バスも走っていました。JRで新長田を通る時、それまでざわざわしていた車内がしーんとなり、窓からは焼け跡が見えていました。バスも、走っているとはいえ、進路の変更があって、方向音痴な私はもし、近くの道で下ろされたりしたらちゃんと歩いて行けるんだろうかと心配でした。バスに乗っていると、JRで見た以上にいろんな物が見え、3ヶ月経っているというのに倒れたり傾いていたりしているビルや解体中の建物がたくさんありました。
地震国と言われている日本に住んでいる限り、避けられない事なのかもしれませんが、できるなら、こんな大規模なものは2度と来ないようにして欲しいです。
('99.1.17)